寳勝山南蔵院 〜こころ安らぐ桜寺〜

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南蔵院について

南蔵院開山

中世の昔、新井三郎盛久は他の仲間達と戦乱を避けて、ここ武蔵国豊島郡の志村庄に移り住み、荒れ地を開墾して蓮沼村を開いた。
村の年寄役であった盛久は、村の生活が軌道に乗ってくると、未だ仏事を掌る寺がないことを悲しんだ。そこで開山に宥照上人を招いて、自らが開基となって志村坂下に寺院を創建した。これが当院の始まりである。
以後、盛久の子孫は代々、村の年寄役を務めて当院を保護し続けてきた。
御本尊には十一面観世音菩薩が安置された。その後当院は、弘法大師空海が自らを刻んだ大師坐像と、行基菩薩作の阿弥陀如来像を拝受して、本尊の傍らに安置した。
しかし、拡大する戦乱に堂宇はとうとう全焼の憂き目に遭い、すんでのところで諸尊像は運び出されて、焼失の難は免れたが、古文書などの他の寺宝は灰燼に帰してしまった。

移転を重ねて

江戸に幕府が開かれると当院の辺り一帯は御料所となった。もと足立郡横曽根村吉祥院に属していたが、そのすぐ後には、上野の寛永寺領となり、江戸から三里の道のりを江戸の人々はしばしば参拝に訪れた。
しかし、当院が別当を兼ねていた氷川神社の一つ、本蓮沼村の氏神が俗に「十度の宮」と称されるほど移転を重ねていたことに示されるように、当地は荒川に近いことから洪水が頻繁で、当院も何度か移転を余儀なくされた。
当院はもとは本蓮沼にあったが、この後、亨保9年(1724)には、荒川の水害を避けて、中山道筋の現在地に、鎮守社の氷川神社もろとも移転し、諸大名の宿寺ともなった。
広大な境内には当院末寺の蓮華寺や金剛院の他、阿弥陀堂や観音堂など多くの堂舎が立ち並び、当院が別当を務めていた三社の氷川神社にも蔵王権現社、御嶽権現社、羽黒稲荷合社、第六天社、弁天社、痘瘡神社、稲荷社などが並び、壮観を呈していた。

櫻寺

亨保7年(1722)11月25日、徳川八代将軍吉宗が鷹狩の際に当院に立ち寄って当縁起を尋ねられた。吉宗は当院の由緒を知って苦難の道のりに感じ入り、当院に白銀を奉納し、以後、御膳所に命じられた。
帰り際、吉宗が境内にある見事な枝垂櫻に目を留め、ふるさとの紀州に咲きほこっていた櫻を思い出したのか、当院を櫻寺と名付けられた。
また、現在東京には古くから櫻の名所として知られた場所が何ヵ所かありますが、そのほとんどが将軍吉宗の植樹になる櫻だということは案外知られていません。吉宗の櫻に対する思いの深さを感じとれる。

志村不動尊

当院にお祀りする不動尊は、もともとは当院の末寺であり、近隣に建っていた「命王山金剛院」の本尊であった。
この不動尊は、蓮沼村ばかりでなく、志村庄をも代表する不動尊であったことから「志村不動尊」と称され、広く人々の参詣を集めていた。
昭和2年(1927)に、この金剛院を当院が合併したときに、その御本尊を本堂ごと境内に移築したのが、現在の当院の不動堂である。
特に厄難消除の本尊として知られ、その利益に与った方は大勢いる。
ある御信徒の話では、仕事の都合で始発に乗らねばならなかった日に、志村のお不動さまの夢で寝坊をしてしまい、あわてて停留所へ駆け付けると、停留所にはダンプが突っ込んでおり、なぎ倒された人々で血の海地獄であった。「お不動さまにお助けいただいた」と震えずにはいられなかったそうである。

戦後の移転

江戸時代より維持していた壮大な伽藍も、太平洋戦争での戦災によって灰燼に帰してしまうと寺の姿も一変した。
境内はだいぶ狭くなったものの、伽藍は昭和31年に再建され、さらに昭和53年には本堂が改築された。いにしえの御尊像の数々は変わらずに当院の堂に集まっている。地蔵堂の本尊も俗に「はいた地蔵」と称されて、今なお多くの信仰を集めている。